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科学は全世界を照らす光である

科学史の歴史

皆さんは「科学史」というフレーズをお聞きになったことがあるでしょうか?

説明などなくても意味はわかる言葉ですが,実際「科学史」という研究分野はあまりメジャーとは言えないように思われます.少なくとも,高校までのカリキュラムには「科学史」に相当するような内容はほとんど含まれていないといっても過言ではないでしょう.

ドイツの詩人ゲーテは「ものごとを知るということはその成り立ちを知るということである」という言葉を好んだといいます [4] .自然科学は「自然を知ること」がその目標の1つであるため,古来より自然の歴史(自然史)を研究してきました.また,科学史は究極的には自然科学を知るために存在すると言えるでしょう.

本記事では,「科学史」を知るために「科学史の歴史」を俯瞰してみたいと思います.

18世紀以前の「科学の歴史」

学問としての科学史の歴史は決してそれほど長いものではありません.しかし,これを「科学の歴史」の記述という意味に拡張すれば,そうした営みはかなり古い時代から行われてきたと言えます.

ドイツの歴史家ベルンハイムによると,歴史的知識とその叙述方法の発展は大きく次の3段階に分けられます [11] .

  1. 物語風歴史:歴史的事実を場所と時系列の順に列挙するだけの段階
  2. 教訓的歴史:過去について明確な観念を与え,現在以降の教訓にする段階
  3. 発展的歴史:歴史現象の生成発展を主題とする段階

第一段階の物語風歴史はしばしば権威の裏付けを行うために記述されたもので,物語風「科学の歴史」というのもその例外ではありません(後述).この段階の歴史認識というのは「学問」と呼ぶにはほど遠いものですが,実際のところ数少ない例外(ギリシャ人やローマ人)を除いては,多くの民族がかなり最近までこの段階から抜け出せていなかったそうです.

次の段階である教訓的歴史は,「教訓的あるいは実用的歴史」とも呼ばれるもので,アテネの歴史家トゥキュディデスが『ペロポネソス戦史』で初めて提唱したものです.つまりこの段階の歴史認識は,時代を越えてあらゆる人間の本性が一般に類似しているとの前提のもと,過去の知識から実用的な教訓を得ることを意図するもので,そのために歴史上に登場する人物の感情や思慮から様々なことを解釈しようとします.したがって,この歴史認識の叙述は著者の道徳論や政治論その他の主観が入り込みやすいという欠点を抱えています.

最後の段階である発展的歴史は,「発展的あるいは発生的歴史」とも呼ばれ,この段階で初めて「歴史は一つの科学である」と言える域に達します.すなわちこの段階にきてやっと,人類は「ある歴史現象はどのようにして生じ,その時代に起こったのか.そして,それが後世に対してどのように作用したのか」を考えるようになります.

さて,上に示したうちの最初の段階である物語風歴史を今回の議論の範疇に含めるのであれば,「科学の歴史」の起源は古代ギリシアまで遡ることができます.以下では,そこから中世を通過し,いわゆる「科学史」という学問が成立するまでの期間における「科学の歴史」の取り扱われ方を,具体例を追いながら見ていくことにしましょう.

古代ギリシャ

現在に伝わる「科学の歴史」に関する最古の記述は5世紀に新プラトン派の代表的哲学者プロクロスが著した『ユークリッド原論第 I 巻の註解』の冒頭に付された「プロクロスの摘要」と呼ばれるユークリッド以前の幾何学の発展を伝える文章です.『ユークリッド原論第 I 巻の註解』の本文には,アリストテレスの友人エウデモスが書いた書物(現代には伝わっていない)からの引用が4箇所あるため,この「プロクロスの摘要」の原型も紀元前4世紀に書かれたエウデモスのものであると言われています [5] .この文章は淡々と過去の科学者の業績を綴っているだけであり,ベルンハイムの分類では完全に物語風歴史にあたります.プロクロスがこの文章を書いた本当の目的はもちろん知る方法もありませんが,幾何学に関する著作を書くにあたり,幾何学という学問の正当性を主張するのに役だったのだろうと推測できます.また,プラトン主義に反する者の功績については記述されていないことから,暗に自らの属する学派の正当性を示したと解釈することも可能なようです.

さらに,科学に関する教訓的歴史の例も古代ギリシャに見出すことができます.アリストテレスの『自然学』や『形而上学』では自説の展開に援用するため,歴史的な事柄が整理されて述べられています [12] .これから述べていくことですが,ヨーロッパなど他の地域における「科学史の歴史」は17世紀頃まで物語風歴史の域にとどまっているのに対し,紀元前のうちから既に教訓的歴史の段階に踏み込んでいるというのは,古代ギリシャがいかに先進的な文明であったかを端的に示しているように思われます.

錬金術と近代科学

中世ヨーロッパの錬金術師が書いた錬金術のテキストには,錬金術の歴史に関する記述が登場します [7] .これもまた,物語風歴史が権威付けの手段として用いられた例の1つです.

一方,同じくヨーロッパの近代科学は古代ギリシャが繁栄した時代やそれ以前のデータ,理論を活用して新しい視点からの体系化を行いましたが,まとまった科学史の記述は行いませんでした.バビロニアや古代ギリシャの時代の観測データは16世紀頃まで利用されていたり,近代の力学がユークリッドやアルキメデスの議論に依拠していたりするにもかかわらず,そうした過去の学問に関する研究が行われなかったというのは,現代の感覚からすればむしろ不自然にさえ感じられます.しかし,そもそも一般の歴史学自体がルネサンスの時代に科学的批判性が備わるようになって誕生した [10] という経緯を鑑みれば,歴史と科学が現在のように有機的に結びついていなかったということは十分に考えられることです.こうした背景があり,17世紀頃までは科学史研究自体さほど盛んでなかった上,わずかながら研究が行われたとしても「特定の古典文献を研究する」程度の内容に留まっていたのでした [12] .

17世紀,イギリスで王立協会が創設された直後,地質学者スプラットは協会としての目的である実験科学の重要性を人々に訴える歴史的根拠づけを行うため『王立協会史』(1667年)をまとめました [7] .その中でスプラットは,ベーコンによって確立された実験哲学こそ最良の知識獲得法だと断定し,それ以前の哲学史を批判しています.つまり,この段階にきてやっとヨーロッパの「科学の歴史」の中に教訓的歴史登場したということができます.

さらに,「科学の歴史」において発展的歴史の最初の例は18世紀後半にフランスの数学史家モンチュクラが書いた 『数学史』(1758年)であると言われています [12] .しかし,科学史研究の流れ全体が発展的歴史の域に到達するには19世紀後半まで待たねばなりません.

科学史のおこり

学説史

18世紀末から19世紀にかけて,ヨーロッパで科学の諸個別分野をそれぞれの発展過程に沿って体系的に記述するということが行われ始めました [7] .すなわち科学史研究は,まずはじめに自然科学の各専門分野の理論や概念の発展と自然に対する認識の高度化の過程をその対象としたということができます [13] .このような方法による科学史の記述は学説史(個別科学史)と呼ばれています.19世紀には,特にこの学説史に関する業績が数多く生み出されました(下表参照).

著者 書名
モンテュクラ(仏) 『数学史』(1758)
ベイリー(仏) 『古代天文学』(1775),『近代天文学』(1778-1782)
グメーリン(独) 『化学史』(1797-1799)
ドランブル(仏) 『古代天文学史』(1817)
コップ(独) 『化学史』(1843-1847)
グラント(英) 『物理的天文学の歴史』(1852)
コベル(独) 『鉱物学史』(1864)
カルス(独) 『動物学史』(1872)
ショルレンマー(独) 『有機化学の起源と発展』(1879)
クラーク(英) 『19世紀天文学史』(1885)
ホイッタカー(英) 『エーテルと電気の歴史』(1910)

総合科学史

学説史の研究が盛んになっていた頃,「科学の歴史」を記述する学説史とは別の潮流が生じ始めました.それは,学説史とは異なり諸個別分野という枠を超え,自然科学全体の歴史をある一定の哲学的見解によってまとめる分野でした.そうした分野は現在では総合科学史と呼ばれ学説史と区別されています.この総合科学史は,実証主義哲学を確立したフランスのコントと仮説演繹法の提唱者であったイギリスのヒューウェルによって提起されました [7] .コントは『実証哲学講義』(1830-1842)の中で科学哲学の根底に必要なものと科学史を位置づけたことで知られています.一方,ヒューウェルは「サイエンティスト」という言葉を初めて用いた書籍『帰納科学の歴史』(1837)を著しました.ヒューウェルの科学史の長所は,科学の進歩について信頼できる説明を与え,科学の諸分野の繋がりを探究したところにあり,最終的に彼は観察と実験は人間の精神の創造力や想像力と結びつくようになるものであると結論づけています [14] .

その後,コントをその祖とする実証主義者らは次々と科学史の発展に貢献していきます.まず,1892年にはコントの友人であるラフィットがパリ大学に設けられた「科学の一般史」の教授となりました.続いて,実証主義者であるとともに物理学者でもあるオーストリアのマッハは,1895年にウィーン大学の「哲学とくに帰納科学の歴史と理論」の教授職に就きました.マッハは実証主義やエネルゲティークの思想を,力学史・熱学史といった個別科学史を批判的に再構成することによって根拠づけました [7] .彼の著作『力学の発達 その批判的・歴史的叙述』(1883年),『熱学の諸原理』(1896年),『物理光学の諸原理』(1921年)は特に科学史三部作と呼ばれ親しまれています [3] .

この頃から,科学史は徐々に一つの科学的学問として認められるようになっていきます.中でも,ベルギー生まれのアメリカ人科学史家サートンの功績は大きく,そのためサートンは「科学史の父」と呼ばれています.サートンは,自らの研究を行う携わる傍ら科学史の確立と普及に努め,1913年に科学史専門誌『アイシス』を創刊,1929年には第1回国際科学史会議を実現させました.また,国際科学史学会の創設にも尽力しています [10] .

一般科学史の勃興

サートンが科学史を創始した頃には,既に総合科学史の研究もかなり集積されてきていました.しかし,より詳細な研究を行い,「古代の力学が静止力学にとどまったのはなぜなのか」や「近代の動力学は,なぜ近代ヨーロッパで誕生・発展したのか」といった疑問に答えるためには,科学内部の問題だけではなく時代背景や各時代の社会的な思想等にも目を向ける必要があり,実際に科学史研究にもそうした視点が取り入れられるようになります.こうした,自然科学と社会の歴史の相互作用を加味する科学史の分野は,今日では一般科学史と呼ばれています [13] .

一般科学史の登場

一般科学史の方法を初めて体系的に提示したのは,ソ連の歴史家へッセンがマルクスの提起した『歴史の唯物論的解釈』に基づいて執筆した『ニュートンの「プリンキピア」の社会的経済的根源』という一本の論文です.その中でヘッセンは,ニュートンおよびその他の近代科学形成期に活躍した科学者の仕事の要因を社会の中に求めました.すなわち,ヘッセンは

封建制が崩壊し,商人資本主義が台頭する時代に,運輸と鉱山業と軍需工業が盛んになり,そこから生じた技術的課題に促されて,自然科学者たちは力学の問題に取り組んだのであり,ニュートンの力学の完成も,それらの努力の蓄積のうえに位置づけられる.

という主旨のことを主張しました [7] .

この論文を受けて,1931年に開かれた第2回科学史技術史国際会議では,「科学の社会的成立条件」と「科学の社会からの破規定性」が論じられることになりました [13] .また,ヘッセンの論文はバナール,クラウザー,ニーダムといったイギリスの研究者に影響を与えたほか,ひいてはアメリカで科学社会学を創始者したマートンや日本の唯物論研究会にも影響を与えていきます.次節では,こうして広がった一般科学史の具体的な研究について,少し詳しく見ていくことにします.

様々な一般科学史研究

バナール

イギリスの物理学者バナールは,X線結晶学を生体高分子の構造解析に応用した最初の人物であるということのほかにも,水の構造や生命の起源に関しても先駆的な業績があることでも有名です.彼は専門分野のみならず,かなり多岐にわたる分野に対して強い興味と深い知識を有しており,周囲からは「Sage(賢人)」という渾名で呼ばれていたといいます.

科学史も,そうした彼の興味分野のひとつで,バナールは「科学の社会における役割」に関する考察を行いました.そして,その成果として1939年に出版された『科学の社会的機能』では,科学の現状を分析し,人類のために貢献できる科学として組織化することの必要性を論じました [9] .より科学史学的な言い方をするのであれば,バナールはビッグサイエンスの誕生を予言していた,ということになります.

クラウザー

イギリスの科学史家クラウザーは,1941年に発表した著書『科学の社会的関係』で,科学史の通史を書くことによってその関係を立証しました [7] .また,第二次世界大戦の頃までソ連の科学や技術の実態について研究を行なったことが知られており,さらにニーダムと共にUNESCOでの活動にも尽力しました [1] .

ニーダム

イギリスの科学史家ニーダムは,もともとは生化学の研究者でしたが,第二次世界大戦中にイギリス大使館の科学顧問として中国に派遣されると中国科学技術史の奥深さに魅了されるようになり,そのまま中国科学史を専門とするようになった人物です [8] .彼は,中国科学史について「近代科学が中国の文明では発達せず,ヨーロッパのみで発達したのはなぜか」という問題をたてて研究を開始し,その答えをヨーロッパと中国の社会構造の違いの中に求め,研究成果を『中国の科学と文明』という大著にまとめました [7] .

また,後述するように科学史に関連する国際機関を設立することにも尽力しています.

マートン

アメリカの機能主義社会科学者マートンは1938年に発行した『17世紀イギリスにおける科学・技術・社会』で,ヘッセンの主張を資料的に根拠付け,「17世紀イギリスでは経済的・技術的要求が科学研究に方向を与えた」という命題を打ち立てました.また,17世紀のイギリスにおいて,ピューリタニズムの倫理が科学を発達させる一つの重要な要素となったという主張を展開しています [7] .

一般科学史の功績

こうした一般科学史研究の発達により,科学史が単に知的あるいは精神的な枠組の中だけでなく,一般歴史学が扱うさまざまな要因との関係においても論じ得ることが明らかとなりました.

また,当時の世界において経済恐慌やファシズムの出現といった社会的できごとに関わって,科学が財政的・思想的に圧迫されるという事態が相次いだなかで,科学の社会的価値を改めて広くとらえ直そうという動きにもつながっていくことになります.

内的科学史の確立

前節でみてきたような,科学と社会との関連に視点をおいた科学の歴史が外的科学史と呼ばれるのに対し,主に科学の内面に焦点をあて,思想と科学との相互関連を通して描いた科学の歴史は内的科学史と呼ばれます [6] .

内的科学史のはじまり

一般科学史が勃興しその功績が積み重なっていた頃,そうした外的科学史を否定し内的科学史を主張する新たな潮流が生まれようとしていました.この内的科学史の流派は,これから見ていくように,主にコイレとバターフィールドという2人の人物によって確立されていきます.

コイレ主義科学史

まず最初にその契機となったのは,コイレが1939年に出版した『ガリレオ研究』です.その中でコイレは,ガリレオの力学形成に影響を与えたのは(当時の社会情勢などではなく)古代の知的伝統にほかならないと主張しました.すなわちコイレは,ガリレオが経験や実験に依拠して功績を残したのではなく,思考実験や数学によって推論を行ったことを強調し,そうした手法の先駆者として古代ギリシアのアルキメデスやプラトンを挙げ,ガリレオをプラトン主義者と断定したのです.このように主張することにより,コイレはヘッセンやバナール,ニーダムらが切り開いた外的科学史の見解を真っ向から否定しにかかりました.

こうしたコイレの論理に倣った科学史は,コイレ主義科学史(科学思想史)とも呼ばれています.ホールの「知的な変化は知性の歴史のなかにそれを説明するものを探さなければならない」とする言葉が,その基本姿勢をよく表しています.

科学革命論

第二次世界大戦後,歴史学者バターフィールドはコイレの内的科学史の立場を踏襲し,科学を一般の歴史の中に位置づけようと試み,1949年に『近代科学の誕生』を発表しました.そこで述べられている「科学革命こそヨーロッパの創造的産物であり,ルネサンスや宗教改革より重要な近代の時代区分を与えるもの」というバターフィールドの議論は,一般に科学革命論と呼ばれています.

内的科学史の発展

内的科学史の発展は科学史の専門分野としての成熟過程と重なる重要な過程で,クラゲット,コーエン,ギリスピーなど多くの科学史家がその発展に貢献しました.そうした研究者の一人で,アメリカの科学史家であるホールは,外的科学史が科学それ自体についてはほとんど語らず,自然科学が経済的・社会的状態から「因果的に決定される」とするのは不適切であるとして,内的科学史の優位を主張しました.すなわちホールは,科学が他の社会的諸要因を超越するほどの深い意味をもつため科学の歴史は他からは独立した歴史として記述すべきであるという,一種の科学至上主義的な立場をとったのです [7] .

クーンの科学革命論

1962年,「パラダイム」なる新しい概念を伴って,アメリカの科学史家クーンの『科学革命の構造』という一つの書籍が世に登場すると,その新たな理論は科学史関連の分野のみならず各方面にかまびすしい波紋を引き起こしました.ここで,クーンの言うパラダイムとは「一般に認められた科学的業績で一定期間専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの」のことを指しています.この用語が科学史のみならず各方面で便利な言葉として用いられるようになったのは,その概念の多義性による曖昧さによるものだと言われています [13] .

もう少しわかりやすい言い方をするのであれば,クーンは「累積による発展」という科学観を捨てまったく新しい科学観を提示したということになります.すなわちクーンは,時代遅れの理論の捨てられてしまった理論を非科学的なものとするのではなく,どれも科学的であったとみなすように見方を変えました.それらの違いは,科学的であるか否かではなく,受け入れる科学者集団の「世界の見方と科学のやり方」(=パラダイム)にあると主張したわけです.

クーンによれば,パラダイムによって規定されている現象や理論の鋳型に,自然を当てはめていくような試みを通常科学と呼び,それらは累積的だがまったく斬新なものを生み出すこともないとされました.一方,ある専門家集団がその分野に関する考え方・方法・目標をすっかり変えてしまう現象をパラダイムシフト(ゲシュタルト転換)と名付け,これを通常科学と区別しました.そして,「こうしたパラダイムシフトは,通常科学を行う中で変則性が現れ,その変則性の認識が深まることによって訪れる危機状態が生み出す新しいパラダイム候補の出現とその受容をめぐる闘いがその原因となる」と考えることによって通常科学とパラダイムシフトを結びつけたのがクーンの科学革命論と呼ばれるものです.つまり,クーンの科学革命論には科学的認識の真理概念すらなく,要するにそこには科学革命にあたっての"進歩"という概念が入り込む場所すらないということを意味しています [13] .

現代の科学史研究とその立場

科学史研究の現状

国際機関の設立

20世紀に入り,1900年のパリ万国博覧会の機会に行われた比較史学会の国際会議やニーダムらの協力がきっかけとなって,1947年に国際科学史連合(IUHS;International Union of History of Science)がUNESCOの下に創設されました [12] .

その主な目的は,それまでの科学が限られた国家の限られた人間の貢献によって発展してきたという状況を打破することと,世界中の様々な人が大学で科学史教育を受けられるということにありました.逆に言えば,ニーダムはそれほど大きな目標をもっていたからこそUNESCOの下でIUHSを設立したということもできます.IUHSは現在,国際科学哲学連合(IUPS;International Union of Philosophy of Science)と合併して国際科学史・科学哲学連合(IUHPS;International Union of History and Philosophy of Science)の一部となっていますが,その使命は今もまったく変わっていません [2] .

外的科学史の復活

1970年以降,科学史学は科学者のつくる制度(大学,学会,研究所など)と科学研究の関係を中心としてさまざまな研究実績をあげていきます.すなわち,一度は内的科学史に圧倒されていた外的科学史がここにきて復活を果たします.

その理由は,第一に1960年代後半から1970年代にかけて表面化した公害や環境問題,あるいは戦後一貫して国家による強力な科学技術政策が推進された結果,科学の軍事中心化が進みベトナム戦争や核兵器が社会問題化することなどによって科学が社会から切り離された純粋な知的営みとはもはや考えられなくなってきたことが挙げられます.また,第二の理由としてマートンが創始した科学社会学がしだいに成果をあげるようになり,1970年代に次々とその成果が出版され始めたことも挙げられるようです [7] .

外的科学史と内的科学史の融合

外的科学史が復活した後,クーンらは内的科学史と外的科学史は本来融合されるべきであると主張しはじめます.すなわちクーンは,科学理論の転換は結局のところ科学者集団を媒介して行われると論じました.

科学者集団はある特定のパラダイム(範型)の下で研究しているが,パラダイムの危機を乗り越えるのは別のパラダイム,つまり,別の科学者集団である.

こうしてクーンは科学的認識と科学者集団との関係を論じるための糸口をつけ,内的アプローチと外的アプローチとの融合を主張したのです [7] .

科学史研究の潮流

1970年代に入ると,「科学と科学者の社会」(=科学制度)と関連する問題が注目を集めるようになります.それに伴い,科学史研究の対象もそれまで盛んに行われてきた17世紀近代科学史から19や20世紀の科学史へと移行しつつあります.特に,19世紀の物理学史については研究方法の共通性によってまとまりがつけられる学問分野(ex. ラプラス的方法,フーリエ的方法,エネルギー物理学の方法 etc.)を中心に置き,物理学の内容と制度的特徴との関連を扱う,いわゆる分野形成史が成果を蓄積しています.

また,それ以外にも19世紀から20世紀にかけて科学が技術と接近しながら産業界に取り込まれていく状況について,特定の学問分野が自立・制度化されていく過程を中心とし,「内的」要因と「外的」要因の双方から扱っていくような研究や西欧諸国からみて発展途上の地域の科学研究史や方法を追究する新しい研究も登場し始めています [7] .

科学史の役割

ここまで,科学史の歴史を概観してきましたが,この記事の最後に,結局のところ現代の科学史の担っている役割は何であるかについて少しだけ論じておくことにします.

科学がわざわざ指摘するまでもなく重要であることを鑑みれば,その歴史について理解することは科学者にとっても人文系の学者にとっても有益であるはずです.では,もう少し具体的に言うとどう重要であると言うのでしょうか.これには少なくとも2つの側面が挙げられるように私には思えます.

第一に,科学史は現代批判の一手段になり得ます.核兵器の開発に代表されるように,昨今のビッグサイエンスは必ずしも人類にとって有益なものばかりを生み出してきたわけではありません.現代の科学研究のあり方が,人類にとって本当に最善のものであるのかどうか,そうした疑問に答えるヒントを科学史は提供してくれるのだろうと考えられます.

第二に,科学史は新しいタイプの科学教育を提供し得るという点が挙げられます.科学史は,長い時間の中で発展してきた人類の知的活動における科学の役割を理解するのに役立つほか,現代の科学と過去の科学との切っても切れない繋がりを提供することが可能です [14] .

こうした価値をもつ科学史が,一般にはあまり知られているとはいえない状況にあることは残念でなりません.人は過去から学ぶことをしなければ,必ず同じ誤ちを繰り返します.そうした意味でも,今後の日本において,科学史がより広く知られた分野となることを私は願っています.


<参考文献>

[1] Gregory, Jane. Crowther, James Gerald (1899–1983). Oxford Dictionary of National Biography. Oxford University Press. 2006. 8. online edn., 2010.
[2] Petitjean, Patrick. UNESCO and the International Union for History of Science. Sixty Years of Sciences at Unesco, 1945-2005, 2006, p.81-82.
[3] 木田元. "マッハとニーチェ―世紀転換思想史". 木下秀人の閑談.
http://www8.plala.or.jp/hkino/file5-7.htm, (accessed 2015-03-04).
[4] "科学史とは". 科学史. 木村陽二郎編. 初版,有信堂高文社,1971,p.3-6.
[5] 小山武. "プロクロスの摘要". 古代ギリシア数学史を学ぶ.
http://www.geocities.jp/ja1tmc/index.html, (accessed 2015-03-04).
[6] 鈴木善次. "人間にとって科学とは何か". 科学の歩みところどころ.
https://www.shinko-keirin.co.jp/keirinkan/kori/science/ayumi/ayumi30.html, (accessed 2015-03-13).
[7] 高山進. "科学史 日本大百科全書の解説". コトバンク.
https://kotobank.jp/word/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%8F%B2-43316, (accessed 2015-02-22).
[8] 〈科学の発想〉をたずねて. 橋本毅彦著. 初版, 左右社, 2010, p.50.
[9] 廣田襄. "J.D.バナールのこと". 京大広報, 2006.9, No.615, p.2223.
[10] ブリタニカ国際大百科事典, 第3版, ブリタニカ・ジャパン, 2004.
[11] "史学の本質および職能". 歴史とは何ぞや. E.ベルンハイム著. 坂口昂, 小野鉄二訳. 初版, 岩波書店, 1935, p.19-30.
[12] 歴史学としての数学史・科学史. 村田全著. 科学図書館, 1972.
http://fomalhautpsa.sakura.ne.jp/Science/Murata/rekishi-sugakushi-utf.pdf, (accessed 2015-02-22).
[13] 科学史 その課題と方法. 山崎正勝, 兵藤友博, 奥山修平, 大沼正則編. 第1版, 青木書店, 1987.
[14] T.ルヴィア. "科学史のための「弁明」". 内田正夫訳. 和光大学, 2004.
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images/_tz0522.9bb5cc6c21da5f7cc8a0342277d07c36.pdf, (accessed 2015-03-18).